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最高級ワインとして揺るがぬ地位を持つ「ロマネ・コンティ」。ロマネ・コンティは長い歴史を持つ由緒正しい畑から生まれ、権力闘争や時代の波にもまれつつも生き残ってきた。
本コラムでは、そんなロマネ・コンティのこと、そして生産者であるドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティについて解説する。
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの歴史
ロマネ・コンティの由来と所有権争い
特級畑としてのロマネ・コンティには、なんとローマ時代から続く2000年を超える歴史がある。その畑は中世、サン・ヴィヴァン修道院に所有する時代が続き、地域に根付いた修道院が所有することで大切に守られてきた。
16世紀まで、ロマネ・コンティの区画は「クルー・デ・サンク・ジュルノー」と呼ばれていた。その後、17世紀には、この区画から採れるぶどうは非常に良質であるということから、良いワインをつくるために尽力した古代ローマ人にちなんで「ロマネ」と呼ばれるようになった。
18世紀初頭にはルイ14世が、特効薬としてこの区画のワインを毎日、スプーンに数杯飲んでいたという。
18世紀半ば、この区画の所有権を巡って揉めごとが勃発した。その結果、ルイ15世の愛人であったポンパドール夫人との争いに勝ち、ブルボン=コンティ家の王子、ルイ・フランソワが畑のオーナーとなった。
ポンパドール夫人は悔しさのあまり、自らのいたヴェルサイユ宮殿から、一切のブルゴーニュワインを排除したという。一方のコンティ王子は、この貴重で優雅なワインを自ら主催する宴ですべて振る舞ったため、ワインが市場に流れることはなくなり、それがロマネ・コンティの伝説的価値を高める結果となった。
革命に翻弄される畑
1789年にフランス革命が起き、この畑「ロマネ」を継承したコンティ王子の息子も、その他の王族や貴族とともに投獄・幽閉された。「ロマネ」の所有者は転々とすることになる。
息子は後に現在のスペイン・バルセロナに亡命するものの、後継者は不在。コンティ家は途絶えてしまう。
畑はいつしか、エレガントな魅力あふれるコンティ王子の思い出にちなみ、「ロマネ・コンティ」と呼ばれるようになった。
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)の誕生
1869年、ジャック=マリー・デュヴォー=ブロシェがロマネ・コンティの畑を買い取り、「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)」としてワインづくりを始める。
その後、1942年にドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティは会社形態となった。このときにアンリ・ルロワが経営権の半分を取得し、ジャック=マリーの血が流れるヴィレーヌ家とルロワ家で共同経営に当たることになる。
こうしてドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティは新体制となり船出を迎えたが、第2次世界大戦中に十分な農薬や肥料が獲得できず、由緒正しい貴重な樹木もぶどうの実をほとんどつけなくなってしまった。そのため、すべてのぶどうの樹をすべて抜き取り、苗木を接ぎ木して植栽し直すという一大作業が行われた。
この間、1946年から1951年までロマネ・コンティは生産を中止。1952年より醸造を再開した。
1991年、共同オーナーのアンリ・ルロワから権利を受け継いだラルー・ビーズ・ルロワは自らのドメーヌ「ドメーヌ・ルロワ」を興したことからDRCと対立、権利を手放した。1992年からは、オベール・ド・ヴィレーヌとアンリ・フレデリック・ロックの共同経営体制となっている。
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティのワインづくり
小さな畑から生まれる奇跡
ロマネ・コンティの畑は1.8haという小ささ。この畑から生まれるワインは、たった6000本。そのため、熱狂した争奪戦となり、価格が高騰するのだ。
ロマネ・コンティの畑はビオディナミ農法により栽培される。ドイツの学者であるシュタイナー博士が提唱したビオディナミ農法は、化学肥料を使わない有機農法であり、月の満ち欠けに合わせて農作業を行うという特徴がある。
伝統的手法での醸造
ロマネ・コンティの畑は、非常に少ない収量にかかわらず、ぶどうの出来があまり良くないと、さらに1/3程度に収量を減らすことがある。
ぶどうは破砕・除梗せず、そのまま発酵させている。できるだけ長い時間をかけて、緩やかな発酵を促すのだ。
さらに醸造全般において、馬を使った耕作業をする、亜硫酸をほとんど使わないなど、ぶどうの味わいを最大限に生かした方法を採っている。
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティのおすすめワイン
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティは、特級畑のロマネ・コンティをはじめ、ラ・ターシュ、リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、グラン・エシェゾー、エシェゾー、モンラッシェ、一級畑のヴォーヌ・ロマネに畑を所有している。
名声も価格も圧倒的であるロマネ・コンティのほか、その弟分とも言われるラ・ターシュなども大変人気がある。