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フランス・ボジョレーを代表するジョルジュ・デュブッフ。日本でも大変人気のあるつくり手だ。
そのジョルジュ・デュブッフ創立者の孫に当たり、現在はジョルジュ・デュブッフの輸出部長を務めるアドリアン デュブッフ・ラコンブ氏が来日し、2018年6月7日、有楽町にて講演会が開かれた。
ボジョレー・ヌーヴォーにとどまらない同社の多彩なワインの魅力について、同社の歴史やワイン醸造のマメ知識とともに紹介してくれた。
ボジョレー地区の概要 ~ 「ボジョレー」「ボジョレー・ヴィラージュ」「クリュ・デュ・ボジョレー」の違いは?
「ボジョレー・ヌーヴォー」で知られるボジョレー地区は、ブルゴーニュ地方の最も南にあるワイン産地。ブルゴーニュ地方の大半では赤ワインにピノ・ノワールが使われるのに対し、ボジョレー地区ではガメイという品種が使われ、早飲みタイプのワインが主につくられている。
ボジョレー地区でつくられるワインは、「ボジョレー」「ボジョレー・ヴィラージュ」「クリュ・デュ・ボジョレー」の3つに分けることができる。
「ボジョレー・ヴィラージュ」は「ボジョレー」よりも厳選された畑で採れたぶどうが使われ、味わいも奥行きとボリュームがある。
「クリュ・デュ・ボジョレー」のワインは、「ムーラン・ナヴァン」「サンタムール」といった産地の村名を名乗ることができる。その土地の個性を生かしたハイ・クオリティなワインだ。
ジョルジュ・デュブッフの歴史:「ボジョレーの帝王」と呼ばれるようになったきっかけは?
創立者のジョルジュ・デュブッフ氏は1933年、フランスのマコンに生まれた。デュブッフ家は当時からワインづくりを手掛けており、ジョルジュ少年も高校時代、家族でつくったワインを自転車に積んで売り歩いていたという。
1957年にはワインのボトリングを開始、1964年にはジョルジュ・デュブッフ社を設立した。次第にリヨンを拠点とするスター・シェフ、ポール・ボキューズなどに認められるようになっていった。
ボジョレー・ヌーヴォーは1970年代、ポール・ボキューズの提唱した“ヌーベル・キュイジーヌ”とともに認知が広まり、世界で最も有名な新酒となった。日本でもバブル絶頂期の1980年代後半、ワインの爆発的ブームが起こり、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁パーティーなども各地で開かれた。
ジョルジュ・デュブッフの名を広めたのは、アメリカのワイン専門誌「ワイン・スペクテイター」だろう。1987年、ジョルジュ氏は同誌の表紙に「King of Beaujolais(ボジョレーの帝王)」として紹介されて賞賛を受け、一層大きな注目を集めるようになった。
ジョルジュ・デュブッフのワインができるまで
ジョルジュ・デュブッフの畑は丘陵地帯に広がり、東向きに傾斜している畑は太陽の光を存分に浴びられる優良畑だ。
ボジョレー・ヌーヴォーに使うガメイの収穫はすべて手摘み。腰の痛くなる重労働だ。ぶどうを収穫する9月には、収穫のための労働者が畑に多数集まり、近所の子どもまで駆り出され、一気に収穫する。自国の労働者だけではまかないきれない収穫量のため、近隣国などからも労働者を集めることがあるそうだ。
甘さがしっかりと凝縮したぶどうは、手作業で選果してタンクへ送る。醸造中は毎日中身を味見し、理想的なワインになっているかどうかをチェックする。
2018年は前年より早く花が咲き、開花から約90〜95日後の8月下旬から収穫を始められそうで、状態はパーフェクトだという。
ジョルジュ・デュブッフの秘密:ハイクオリティなワインが毎年生まれる要因は?
ジョルジュ・デュブッフはボジョレーで最も有名なつくり手の1つとして、毎年安定してハイクオリティのワインを生産し続けている。契約農家は約400軒。原料となるぶどうの質に妥協せず、最高のものを厳選している。
ぶどう畑の端には、バラが植えられている。ぶどうより弱いバラの健康状態は、畑のコンディションを適切にはかるバロメーターになっているという。
また、ジョルジュ・デュブッフのクオリティを安定させている大切な要因として、ジョルジュ氏の類い稀なるテイスティング能力が挙げられる。
ワインのアッサンブラージュ(ブレンド)は香水づくりと非常に似ており、いくつもの香りを嗅ぎ分け、味わい分けるスキルが必要だ。ジョルジュ氏は毎日200種類以上のワインをテイスティングするといい、最も優れたブレンドを今日も探し続けている。
アドリアン デュブッフ・ラコンブ氏:
1988年、フランス・リヨン生まれ。ボルドーの大学にてワイン・マーケティングとマネジメントを専攻。2006年から2012年まで、フランス国内外のワイン関連企業でインターン勤務。2012年からはジョルジュ・デュブッフに入社し、現在は輸出部長を務める。身長190cmと見上げるほどの長身だが、人懐っこい柔和な笑顔が印象的だった。